ココ・シャネル
世界でもっとも有名なフランス人女性といっても過言ではないシャネルは、有名ブランドの創業者というよりも
現代女性の服装の基礎を決定付けた現代レディースアパレルの創業者であるといえます。
コルセットと大量の羽をつけたドレスや帽子が上流階級のファッションであった当時にシンプルな黒いドレスをカッティングの優美さとともに仕上げ、女性をコルセットから解放したココ・シャネル。
貴族階級とそうでないものの格差の激しい時代に貧民出身の孤児の出から、上流階級のファッションと文化に多大な影響を与えることは
今思うほど容易なことではありません。
今回は、何回かにわたって、頑固なまでに揺るがない自分の気持ちに正直に生きた女性がファッションの女王に君臨するまでの軌跡をパールと交えてお伝えしていきます。
ココ・シャネルと二人の男
ココ・シャネルがファッション界の女王になる礎になくてはならない男性が二人います。
一人目がエティエンヌ・バルサン
ココ・シャネルがまだ田舎で貧乏暮らしだったころ、その田舎に来ていたバルサンに出会います。
彼はかなりの資産家で両親を亡くしたばかりで莫大な遺産を相続したばかりの騎兵隊の将校でした。
バルサンはココ・シャネルをパリ郊外の自分の家に招待しました。バルサンは、その持ち家で競走馬を育てたり、クルティザンヌを囲ったりして自由に暮らしていたのです。
クルティザンヌはいわゆる今で言う高級娼婦ですが、パリの社交界では切っても切れぬ関係です。
日本では花魁などがそれに近いかもしれません。
そのクルティザンヌのファッションに革命を与えることがシャネルのファッションデザイナーとしての黎明期にあたります。
ココ・シャネルは、自分は、クルティザンヌにはならず、お金をかけたクルティザンヌ達の服に対抗すべく男の服を着こなし、自分を目立たせ集まりに出かけました。
その中で、一番注目を集めたのが彼女の帽子でした。ココ・シャネルは羽のないシンプルな帽子を自分でつくり、それがクルティザンヌ達の目にもとまったのです。当時ではそんなシンプルな帽子革新的でした。
ファッションに敏感なクルティザンヌ達がココ・シャネルの帽子をかぶりたがり、彼女達がパリでかぶることによって、パリで話題になっていったのです。
ココ・シャネルはこうしてだんだんと帽子というもので名前を知られるようになっていきました。
が、それでもまだその名声は、一部のパリの女優達に限られていました。
1912年、ココシャネルが29歳の時、彼女は運命の人、アーサー・カペルと出会います。
この二人目の男性カペルこそが、ココ・シャネルの“シャネル”の始まりをつくる男性です。
後に“彼は父であり、兄であり、家族だった。私の人生における最大の幸運だった。わたしという女を形作ったのよ。私の個性をどのように伸ばせばよいかを、彼は知っていたの”と話しています。
カペルは、1913年ココシャネルが30歳の時、パリにシャネルの帽子店第1号をオープンさせました。
ここからココ・シャネルのファッションの女王としての歴史が始まります。
このつづきは中編で。
26歳のころのシャネル
セレクトショップ・シンフーライフ 店長/ウェブマーケティング/バイヤー
10年以上のバイイングとECサイト販売の経験から得た商品選びのポイントや業界裏情報、自分が働いている中で衝撃を受けたファッションの話題を提供しています。